記憶
3年前の夏
いつものようにりえと実家に行く。
父はすこし、おかしくなっていた。
3月におばさんの葬儀があったときも、
弟の香典袋を何枚も書いていたり
ちょっとおかしいと笑ったけど・・。
一晩中引き出しのかたずけをしていたり
山車がくるから渡すとご祝儀袋を何枚も書いたり
どうも眠らなくても平気だったりするらしい。
ずっとりえと話をしながら
りえは、
「え?おじいちゃん、ふつうだよ?」
そう言っているときに
「りえにこれをやろう」
と、束ねたダイレクトメールの束を渡し、
「こんなものいらないよ~」
そんなふうに笑ったのが最後だった。
次に会いに行ったときは、もう私のことはわからなかった。
私を、岐阜にいる妹だと思っているようだった。
その数年前、認知症になりかけの義父に会ったときは
数日辛かった、彼は何度も泣いていたからだ。
だけど、私の父は、わけのわからない、つじつまのあわないことを
なにやら言っては笑い、とっても楽しそうで。
もう、彼は別の世界に住んでいるのだと思った。
だから悲しくはなかった。
「私の父は、ハッピーワールドに住んでいる」
誰かに近況を聞かれると
私はそう答えた。
寂しくはなかったけど
父の記憶の中に「まゆみ」という
存在はないのだろうか
私という存在は・・
記憶とは何なのだろうと
よく、想いを巡らせた。
私の別れた主人の父は
認知症になっても、私を覚えていた。
そして、施設の人に、妹だと言い、
自分の息子の名前を口にすることはあっても、
そこには、私との関連性は何もないかのようだった。
そして、よくごはんを食べたり、会いに行っていたりえのことは
まったく、覚えてないのだ。
りえは、ね~どうしてママだけわかるの?と怒っていたけど。。
私が妹なら、孫は存在してないな(笑)
それとも、息子の離婚は受け入れたくない悲しい記憶だったのだろうか。
まゆみは妹だよ、と言われ
私は、可愛がられていたのだと、改めて思った。
親しく愛しい存在だという記憶・・。
父は、施設でもアイドルだった、他の人に比べて反応が明らかに楽しい。
そして、習字は上手いままだった。
香典袋を何枚も書いてたくらいだから、
筆で字を書くのはホントに好きだったんだろうな~。
意味のあることは何も言わないのに、
身体は、覚えているんだね。
わたし、という存在は、まゆみでもなく、妹のとみこでもなく
見知らぬ人になった。
いつか、会いに行って、弟が席を立った瞬間
父はそわそわ落ち着かなくなり、
知らない人の中に置き去りにされたと思ったのだろう。
弟のことも、よく来てくれる人、のような認識になっていたようだ。
最後に弟が会いに行ったとき
弟の言葉は、父にどう届いたのか
身体という入れ物の
脳という機能はおかしくなったとしても
魂のレベルでは
ちゃんと、伝わっているんだよね?
動かなくなった、身体という入れ物
入れ物がなくなって自由になった父には
どこでいつ話しかけても、
気持ちは届くのかな。
おとうさん、
川崎は今日は祭りの最終日だよ。
家の前を、稲毛神社の神輿が通って、
やっと、川崎に引っ越してきた実感がわいた。
神輿主体の祭りには珍しく本物のお囃子だった。
真夏の祭りは大変だろうなぁ。。。